私のエッセイ

2017.02.17更新

私の卒業した小学校は、新潟県でも雪深い高田市(現在の上越市)の師範付属小学校といって1学年1クラス、それに当時としては珍しい男女共学で、担任の先生は1年から6年まで持ち上がりという学校でしたが、私はここで、最後の6年生の丸1年間、いじめられっ子としての人生を余儀なくされたのです。
   昨年の神戸新聞のくらしの欄に、よくいじめられる子供の傾向として、「すぐ怒る」「いやがらせをする」「人をおちょくる」「みんなと遊ばない」「人の邪魔をする」「動作が鈍い」「学力不振」「不清潔」などの他にも、おとなしくて勉強の出来る子供やいじめられても反発しない子供も対象になり易いとありましたが、私の場合決定的だったことは、6年生始動日の級長選挙で、そのキャスティング・ヴォートを握っていた女子の票が引き金となって、私は何人かの男子生徒の格好ないじめの標的になってしまったのです。爾来、来る日も来る日もいじめられ抜きました。始めのうちは見るに見かねて私を庇ってくれた友もありましたが、彼もまた彼等からいじめられて私から離れていってしまいました。今から思うと、あの時期、殆どの男子生徒は、心のうちでは私に同情しながらも、見て見ぬふりをするか、或いは心に反しながらもちょっぴり彼等に加担するかの選択肢しかなかったのだと思います。昼も夜も恐怖に苛まれました。昼は学校かその帰り道で、夜はうなされそうな夢の中で。私はとうとう思い余って父に打ち明けました。父はその翌朝、担任の先生に会いに学校へ出かけて行ったようでした。でも所詮これは父や先生にも解決できる問題ではなかったようです。子供のいじめは大人が考える以上にジメジメしていて、誰かに注意されるとそのやり方が陰湿になるだけだったからです。もう第3者にはどうにもならないことを悟ると、私は子供なりに殻に閉じこもった貝のように、歯を食いしばってじっと耐え続け、彼等のいじめの疲れを待つ以外にはないと思いました。でも、その学年の3学期、遂に私は軽いノイローゼになって、当時父の勤めていた病院に黄色の水薬をとりに何回か足を運んだことを思い出すことが出来ます。それはおさない心の荒廃の一歩手前だったかも知れませんでした。
   しかし、卒業が近づくにつれ、ようやく彼等の執念も褪せていったようで、中学入学後間もない雪解けの頃、私はいじめられっ子より開放されたのです。その頃の跳び上がって万歳をしたいような感動は現在でも鮮明に脳裏に刻まれています。思えば、つらい悲しい級長の1年でした。
   そしてこの1年こそ、私にとってまさに“The longest year”であったと言えます。でも
同時に、私がこの1年間に得たものも決して少なくありませんでした。根性、辛抱強さ、弱者への思い遣りなど等、私のその後の人生にどれだけプラスになってくれましたか、高い高い代償を払って取得した宝物でしたから。
   一方、嘗てのいじめっこ達は、今では高田周辺、東京、名古屋など四散していますが、彼等は関西に来ますと決まって神戸の私の家に立ち寄って夜を徹して痛飲して行きましたし、また2年に1度東京でクラス会を催していますが、遠かったり忙しかったりで中々参加が難しい私のところに、「何とかして出て来てくれないか。中野がいないと会が盛り上がらないから」としきりに電話が掛かって来たりして、今では名実ともに級長になったと心ひそかに思っています。不思議なものです。この頃から、あれほど長い間私を悩ませていた頑固ないじめられっこ子の夢もふっつりと消えて行きました。
  ところで、子供は純粋です。それだから傷つきやすいのです。でも、子供は自分で立ち直れる無限の可能性を持っています。ですから私は、親はこういう場合、全てを子供にとって代わってという支援より、子供の無限の可能性にちょっぴり手を貸して上げるだけでいいのではないかと思います。子供は自分のマイナスを将来の素晴らしい宝石に変えながら、必ず自力で這い上がって来るに違いないからです。
                                   (昭和59年)

投稿者: 中野産婦人科

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